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2012年6月 8日 (金)

神の子に至る道  続き…

老囚人ライファーから様々な教えを受け、これから出獄するとなった前夜にライファーは彼に「スターデリー」という名を彼に与えます。
スターデリーは無学でしかも人生の半分、あるいは半分以上も凶悪ギャングのボス的存在でしたが、
ライファーは「真に社会および人類に対して奉仕したいと自発的希望を持ってさえすれば、決して君は法律によって縛られることもないし、社会もまた、君を求めて見いだし今までなかったほどの多くの機会を与えてくれるだろう。」
そう言ってスターデリーを励ましました。

やがてスターデリーは自らの人生体験を大きな愛に転化させ、多くの人々に感動と勇気を与え、人々を包み込み救いの道へと導いていきました。

 

 

神は人間に罰をお与えになられるということは決してございません。むしろかわいい我が子を何とか救いたいという思いでいっぱいです。しかし、自らの魂の底からわき出る良心が自らを裁き、許しきれないということはございます。
その時にこそ、愛を分け与えなさい、と天上界は言うのですね。愛を与えていくことににって、自らの魂も癒え、自分をも許すことが出来るようになるのですね。

数はきわめて少ないと思われますが、天上界が伝えるところによりますと、たとえ死刑囚でありましても回心し、深い深い懺悔の涙を流し、神向心を持った方の中には天国に還っている人たちもいます。
心素直に自らの過ちを認め、反省によって罪を洗い清めて、神の子に立ち返った人は地獄に堕ちないということです。
ただ、その懺悔の深さが大事になります。

このスターデリーという方はマイナスの人生が長かった方であります。しかし、そのような人生から「回心」というものを通して神の子に立ち返っていく、という人生を身をもって示しました。そしてたとえどのような人であっても、いかなるマイナスの人生を生きてきたとしてもそこに救いの道があるのだ、ということを教えてこられた光の天使でした。
ちょうどヘレンケラーとサリバン先生がペアーで人生計画をしてこられたように、
スターデリーとライファーもペアーであのような過酷な人生計画を立ててこられたのでしょう。

私たちは現在まで、この地上という善悪の二元対立する世界で魂修行をしてきています。やがて愛一元の世界に地球も上がっていくのでしょうけれども、しかし、二元対立する世界で十分に鍛えられている私たちの魂は他惑星の人々よりも魂の根底においては、愛の強さの基礎が見えないところで十分に培われてきているのではないでしょうか。

かつてこのように教えられてきたことがありました。
「みなさんが過去、もし、多くの失敗をされてきたとしても、それをプラスに生かしていく道がある。間違った行いをしてきたとしても、そうした多くの失敗や間違った念いを脱した、その量と質が大きければ大きいほど、もう一段上に行く可能性はおおきいですよ」と。

天上界は明らかに善を取り悪を去れ、と最初の段階では教えられます。
けれどもこの過程においては、どうしても偏狭な心になりがちであります。いわゆる「善人埃」というものを知らず知らずのうちに身につけてしまうのですね。人が間違ったことをしているとそれを批判し間違っている、間違っていると言って、
自分がやってきた教義や主張をしてしまいがちです。まだ、愛一元という世界には真に到達しきれていないのです。
そして、己の不正直さや弱さと真に向き合ったことが少ないということが言えるのではないかと思います。

しかし、心が氷のように、しかもその氷の大きさも人一倍大きい人がひとたび深い反省を通じ、その大きな氷を溶かした時には、その水の量も大きなものとなります。スターデリーがそうであったように多くの人たちが水をもとめてやってくるようになるのですね。

回心というものは、神との出会い、そして神の子に立ち返っていくための架け橋であります。すなわち神向心を持つことであります。
この世に生を受けて、神との出会い、あるには唯物的なものの観方を超えた存在に眼を向けるきっかけというものは、どの方にも平等に与えられているものです。これには例外はありません。
けれども、そのきっかけをつかむかつかまないかは、人それぞれの自由意志にまかされているのです。

では、私たち凡人が神へと向かうためにどのような段階を辿っていくのでしょうか。もちろん方法論はいろいろとあると思います。
個人的には、体験上から、やはりはじめに神理を知り、神の子として生ききるという強い決意をすることが大切だと思います。

当たり前のようでありますが、
しかしこれが最初は難しいのですね。神の子として生きようと思っても、いつしか三次元の価値に流されていく自分、人を憎んでしまう自分、そしていつしか自分のことしか考えていない、そういう自分に愕然としてしまいます。そして、反省をします。八正道に照らして一つ一つを反省し、再び、歩みを進めます。

しかしやっぱり自分の心が思うようにコントロール出来ないことに自己嫌悪に陥ったり、自暴自棄になったり、時にはもう自分の魂など消滅してしまうほうがいいと思ったりしてしまう時もあります。
悶々とする日々が続きます。しかし私はこうした時期というものはどうしても通過していかなくてはならないと思っていますし、とても大事だと思います。

己の弱さ、不正直さ、これまで生きてきた中での自分の罪の多さ、こうした偽物の自分と徹底的に闘う時期はとても大事だと思います。その過程で謙虚さ、包容力の芽が出始め、愛へと成長していく準備が見えないところで進んでいるのですね。
ちょうど植物が発芽し土の中にしっかりと根を張りだしていくように目には見えないけれども、魂の器を広げ、強い不動心というものも培われているのです。

ですから、まず徹底的に偽物の自己と対決することが大事です。これを避けてきた人というのは、善人埃をつけて、謙虚さや包容力が欠如してしまっているように感じます。

この時期に、「ねばならないにひっかかってはならないのだ」とか、「魂を解放するのだ」とか「ワクワクすることを考え行動するのだ」というような神理を使うべき段階にまだないと私は思います。それは神理をねじ曲げていくことになり、
間違った方向へと行きかねないと思います。

そして、こうした試行錯誤の連続の中で反省を繰り返しているうちに、だんだんと心の軌道修正がある程度出来るような段階になってきます。そうしますと、天上界から降り注いでいる光を受け取れるようになってきます。
ここまで来ますと、今度は自身の霊的な力を解放し、自分の個性を存分に発揮していく段階にはいっていくのですね。この段階の時にねばならないというようなひっかかりを取り去り、魂を解放していくのですね。
そして、自身の魂の兄弟姉妹たちとも一体となり、完全に自分自身とつながるようになります。この時にはすでに意識せずとも一元的な思考をしているご自身にお気づきになるはずです。

こういう道筋を通常辿っていくと思います。ずいぶんと長い道のりのように思われますが、今という時代は時間が加速しているとも言われています。どなたであっても、神へと向かっていこうとする強い決意さえあれば、驚くほどの速さで到達していけるのではないかと思われます。

一足飛びに実相が顕現されないのが三次元世界なのです。この世界では植物が生長していくのと同じプロセスを辿り、そしてそれぞれの個性に応じた花を咲かせ実をつけるのですね。さらに人それぞれ時期も違います。
すべての業には時があります。新たに生まれるに時があります。

私達がこの三次元で創る罪というものは塵そのものであります。塵は塵そのままでおいておくと、それは公害の原因になるだけなのですが、その塵のようなものを愛という方向へ転化する方向もまたあるのです。これは事実であります。

        出雲 拝

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